デヴィ夫人母の死因と最期の真相|弟の自死直後に起きた家族の悲劇
国際社交界で華麗な存在感を放ち、日本のエンターテインメント界でも唯一無二のポジションを築き上げているデヴィ夫人。その洗練された美貌と優雅な立ち振る舞いからは想像もつかないほど、若き日の彼女は凄惨を極める家庭環境と家族の別離を経験しています。
とりわけ、インドネシアのスカルノ大統領のもとへ渡った直後に起きた最愛の実母と弟の連続死は、彼女の人生最大のトラウマとして深く刻まれています。世間を騒然とさせた母親の死因は何だったのか、そしてなぜ短期間のうちに家族が命を落とさなければならなかったのか。当時の記録と本人の証言をもとに、知られざる歴史の真相を紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:デヴィ夫人の母・政子さんの死因は「急性心不全(脳溢血・心労による急逝)」であり、最愛の息子の自死からわずか2日後に息を引き取った。
- 要点2:最愛の弟・八曾男(やそお)さんは、姉の渡航に伴う世間の苛烈な中傷や詐欺被害に苦しみ、20代前半の若さで自ら命を絶つ悲劇に見舞われた。
- 要点3:極貧の生い立ちから大統領夫人へと駆け上がる光と影の裏には、家族全員を若くして見送るという壮絶な人生ドラマが存在していた。
【真相】デヴィ夫人の母親の死因と病名|弟の急逝からわずか2日後の悲劇
デヴィ夫人の実母である根本政子(まさこ)さんは、1962年(昭和37年)にこの世を去りました。亡くなった当時の年齢は享年58歳という早すぎる別れでした。
直接の死因は心労に起因する急性心不全(脳溢血・脳卒中とも伝えられる)です。持病として高血圧などを抱えていたとされますが、病状を急激に悪化させた最大の引き金は、最愛の息子(デヴィ夫人の弟・八曾男さん)が自死したという衝撃的な知らせでした。
当時、東京女子医科大学病院に入院中だった母・政子さんは、息子の訃報を聞いた瞬間に激しいショックを受け、容態が急変。弟の死からわずか2日後に後を追うように息を引き取りました。遠くインドネシアの地にいたデヴィ夫人にとって、祖国に残した最愛の家族2人を数日のうちに同時に失うという、筆舌に尽くしがたい絶望的な出来事でした。
母親の名前と福島でのルーツ|足の不自由を押して支えた娘・根本七保子
デヴィ夫人(本名:根本七保子/ねもとなおこ)の母親の名前は「政子(まさこ)」さんといい、福島県の農家にルーツを持つ女性でした。
母・政子さんは若い頃に患った病気の後遺症で足が不自由(小児麻痺による歩行障がい)でありながら、非常に芯が強く、誇り高い人柄であったと語られています。家計を助けるために自宅で和裁の内職を昼夜問わず続け、針仕事で指を真っ赤にしながら子どもたちを育て上げました。
貧しくとも礼儀作法や身だしなみには厳格で、七保子少女に対して「女性として凛と生きる姿勢」を徹底して教え込んだ人物でもあります。デヴィ夫人が持つ強靭なメンタリティと高い美意識は、間違いなくこの母の後ろ姿から受け継がれたものでした。
極貧だった生い立ちと家族構成|父・兵次郎の失明と麻布での壮絶な暮らし
デヴィ夫人の原点は、東京・麻布霞町(現在の港区西麻布)での厳しい極貧生活にあります。当時の家族構成は以下の4人家族でした。
大工の棟梁を務めていた父・根本兵次郎さんは、腕の良い職人でしたが目を患って失明状態となり、一家の稼ぎ頭としての収入を失ってしまいます。そのため、家庭は日々の食事にも事欠くほどの困窮を極めました。
第二次世界大戦の空襲によって家を焼かれ、戦後の混乱期をバラック小屋同然の住居で過ごした記憶をデヴィ夫人自身も明かしています。中学生のときに父・兵次郎さんが他界したことで生活苦は頂点に達し、長女である七保子は高校進学と同時に家計の全責任を背負うこととなりました。
定時制高校(東京都立三田高校夜間部)に通いながら、昼は千代田生命保険で働き、夜は高級クラブで働くという睡眠時間わずか数時間の過酷な青春時代を過ごし、母の治療費と弟の学費を一人で捻出し続けました。
最愛の弟・八曾男の自死理由|スカルノ大統領への輿入れと世間の苛烈なバッシング
母の命を縮める直接の引き金となった弟・八曾男さんの悲劇は、姉である七保子の華麗なる転身の「影」として起きてしまいました。
真面目で秀才だった八曾男さんは、姉の献身的な経済支援を受けて早稲田大学に進学していました。しかし1959年、七保子がインドネシアの初代大統領スカルノに見初められジャカルタへ渡ったことで、一家を取り巻く環境は一変します。
当時の日本メディアや世間は、国家元首の妻となる彼女に対して祝福ばかりを向けたわけではありませんでした。「大統領の愛人」「身売り」「売国奴」といった心ない言葉や差別的なバッシングが容赦なく実家に浴びせられたのです。
繊細な性格だった八曾男さんは、周囲からの陰口や好奇の目に晒され、人間関係に深い傷を負いました。さらに、姉の立場を利用しようと近づいてきた悪質な人物による金銭トラブル(詐欺被害)も重なり、精神的に完全に追い詰められてしまいます。そして1962年、自宅アパートにてガスによる自死を選んでしまいました。享年22歳という若さでした。
若い頃の経歴とセレブへの転身|すべてを失ったデヴィ夫人が歩んだ不屈の半生
赤坂の高級クラブ「コパカバーナ」で美貌の華として名を馳せ、19歳でスカルノ大統領と運命的な出会いを果たしたデヴィ夫人。1962年に正式に結婚し、第3夫人として「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」の名を授かりました。
しかし、富と名声を手に入れたまさにその瞬間に、愛する家族全員(父・弟・母)を失うというこの上ない悲運に見舞われたのです。「私がインドネシアへ行かなければ、弟も母も死なずに済んだのではないか」という自責の念は、当時の彼女を激しく苦しめました。
それでも彼女は立ち止まりませんでした。スカルノ大統領との間に長女・カリナさんを出産後、1965年の軍事クーデター(9・30事件)によって失脚した夫とともに激動の政変を生き抜き、フランス・パリへ亡命。ヨーロッパ社交界で「東洋の真珠」と称賛される国際的セレブリティへと登りつめたのです。
過酷な死別と逆境を何度も乗り越えてきた経験こそが、どんな逆風にも決して屈しないデヴィ夫人の強烈なパーソナリティを形作っています。
【デヴィ夫人 母親 死因】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:デヴィ夫人の母親の病名と死因は何ですか?
A1:直接の死因は急性心不全(脳卒中・脳溢血を伴う急逝)とされています。持病を抱えて東京女子医大病院に入院中、弟・八曾男さんの自死の知らせを受けて極度の心労から容態が急変し、弟の死からわずか2日後に息を引き取りました。
Q2:母親が亡くなった当時の年齢は何歳でしたか?
A2:母・政子さんは享年58歳(1962年逝去)でした。戦前・戦後の困窮や身体の不自由さに耐え抜きながら子どもを育て上げた、早すぎる生涯でした。
Q3:弟の八曾男さんが命を絶った理由は何だったのですか?
A3:姉(デヴィ夫人)がインドネシアへ渡ったことに対する世間からの心ない中傷や偏見、早稲田大学在学中に巻き込まれた知人からの詐欺被害などが重なり、強い精神的ストレスを抱えたことが原因とされています。
まとめ:過酷な家族の悲劇を乗り越えて輝き続けるデヴィ夫人の生き様
デヴィ夫人の母・政子さんの死は、単なる病死ではなく、激動の時代背景と家族を襲った悲運の連鎖によってもたらされたものでした。一家の大黒柱だった父の病、貧困の中で自分たちを育ててくれた母、そして姉を誇りに思いながらも世間の刃に倒れた最愛の弟。
家族を失った深い悲しみを胸の奥に秘めながらも、異国の地で生き抜き、国際社会を舞台に戦い続けてきたデヴィ夫人。彼女が見せる揺るぎない気品と圧倒的な生命力の裏側には、若き日に流した涙と、天国の家族へ誓った強い誇りが宿っています。 (出典: デヴィ夫人 母親 死因(Yahoo!ニュース))