廉頗はなぜ趙を追われたのか?亡命の真相と波乱に満ちた晩年の史実
漫画『キングダム』でも圧倒的な武勇と豪胆さで読者を魅了した趙国の伝説的大将軍・廉頗(れんぱ)。秦の苛烈な侵略を幾度となく跳ね返し、名宰相・藺相如(りんしょうじょ)とともに趙を中華屈指の強国へと押し上げた不世出の英雄です。しかし、そんな国の守護神が、なぜ晩年に祖国を追われ「亡命」という過酷な運命を辿らねばならなかったのでしょうか。
その背景には、暗君として悪名高い悼襄王(とうじょうおう)の即位、希代の奸臣・郭開(かくかい)による卑劣な謀略、そして後任将軍・楽乗(がくじょう)との武力衝突という衝撃的な政治ドラマが存在しました。本稿では、司馬遷の『史記』に記された廉頗亡命の決定的な理由から、魏・楚を渡り歩いた流浪の足跡、そして歴史に刻まれた無念の最期までを詳しく紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:廉頗の亡命理由は、孝成王の崩御後に即位した悼襄王との長年の確執と、奸臣・郭開の讒言による将軍職の突如罷免にある。
- 要点2:理不尽な解任に激怒した廉頗は後任の楽乗軍を攻撃・敗走させ、そのまま魏の都・大梁へ亡命。後に楚へと身を寄せた。
- 要点3:故事「廉頗老いぬ、尚お食らうや」が語る通り、最期まで祖国・趙での再起を渇望しながらも、異国の地・楚で無念の病没を遂げた。
【趙の守護神】三大天・廉頗の輝かしい経歴と「刎頸の交わり」
廉頗の軍才は、戦国時代を通じても指折りのものでした。紀元前283年、斉を攻めて陽晋の地を奪取した功績で一躍名を轟かせ、趙の上卿(宰相・最高指導層)に任じられます。武力をもって他国を威圧する廉頗は、まさに趙の軍事力の象徴でした。
廉頗を語る上で欠かせないのが、文官の最高峰となった藺相如との「刎頸(ふんけい)の交わり」です。当初、口先だけで出世したと藺相如を軽視し、公然と侮辱しようとした廉頗でしたが、藺相如が「秦が趙を攻めないのは私と廉頗将軍がいるからだ。私闘で国を危うくするわけにはいかない」と避けていた真意を知り、自らの器の小ささを猛省。上半身裸になりイバラの鞭を背負って藺相如に謝罪した「負荊請罪(ふけいせいざい)」のエピソードは有名です。
二人が固い絆で結ばれたことで、趙の文武のバランスは磐石となり、秦の昭襄王すら手出しができない黄金期を築き上げました。紀元前260年の「長平の戦い」では、秦軍の攻勢に対して徹底した持久戦を展開。廉頗がいる限り秦は趙を破れませんでしたが、秦の流言に乗った趙の孝成王が廉頗を解任し、経験の浅い趙括に代えたことで趙は壊滅的敗北を喫します。その後、燕が趙の弱体化につけ込んで侵略してきた際、廉頗は見事に燕軍を撃破して逆包囲し、趙の存亡を救うなど、その軍略は晩年まで衰えることはありませんでした。
【亡命の真相】なぜ廉頗は趙を追放されたのか?悼襄王と郭開の謀略
趙国を幾度も滅亡の危機から救った大英雄が、なぜ亡命に追い込まれたのか。その直接の引き金となったのは、紀元前245年の孝成王の死と、悼襄王の即位でした。
悼襄王は太子時代から廉頗と折り合いが悪く、廉頗の剛直な諫言を煙たがっていました。そこに付け込んだのが、戦国屈指の売国奴・奸臣として知られる郭開です。郭開は太子の側近として取り入り、自らの権力を強固にするため、軍部に絶大な影響力を持つ廉頗の排除を画策しました。
当時、廉頗は魏の繁陽(はんよう)を攻めて占領するなど前線で戦功を挙げていました。しかし即位したばかりの悼襄王は、郭開の讒言を鵜呑みにし、前線で指揮を執る廉頗を突如として軍司令官から罷免する命令を下したのです。
国家のために命を削り続けてきた廉頗にとって、君主交代による私情と奸臣の罠による理不尽な更迭は到底受け入れられるものではありませんでした。この理不尽な追放劇こそが、廉頗を趙から去らせる決定的な契機となったのです。
【同胞との衝突】後任将軍・楽乗との戦いと魏への電撃亡命
廉頗の解任に際し、後任の将軍として派遣されたのが楽乗(がくじょう)でした。楽乗はかつて燕の名将・楽毅の一族であり、廉頗とともに燕軍を迎え撃った実績ある名将の一人でした。
しかし、前線に乗り込んできた楽乗に対し、激怒した廉頗は指揮権の引き渡しを拒否。あろうことか味方であるはずの楽乗の軍勢を急襲・攻撃したのです。廉頗の猛攻に耐えかねた楽乗は敗走し、軍は壊乱状態に陥りました。
この武力衝突は、廉頗にとって取り返しのつかない決断となりました。いくら王の命令が不当であったとはいえ、王命を受けた将軍を私兵で攻撃したことは明白な反逆罪に該当します。趙国内に留まれば反逆者として処刑を免れないと悟った廉頗は、そのまま軍を離脱し、隣国である魏の都・大梁(たいりょう)へと電撃的に亡命したのです。
【流浪の晩年】魏から楚国へ渡った英雄の苦悩と「大梁」での日々
魏の首都・大梁に身を寄せた廉頗でしたが、亡命生活は決して平坦なものではありませんでした。魏王は中華屈指の名将である廉頗の亡命を歓迎し、客将として手厚く保護したものの、廉頗を軍の指揮官として起用して全軍を預けるほどの信頼は置きませんでした。
かつて趙の将軍として魏の領土を攻め取った張本人である廉頗に対し、魏の首脳陣が警戒心を抱くのは自然な流れでした。戦場を奪われた廉頗は、大梁で鬱屈とした日々を過ごすことになります。
その頃、南方の強国・楚が廉頗の軍才を高く評価し、密かに廉頗を自国へ招聘します。廉頗は活躍の場を求めて楚へ移籍し、寿春(じゅしゅん)で将軍に迎えられました。しかし、楚軍を率いた廉頗は「趙の兵を使いたい(我趙人を用いんと欲す)」と嘆息したと伝えられています。趙の精強な兵と一体になって戦ってきた廉頗にとって、風土も戦法も異なる異国の軍を率いることは、精神的にも極めて苦痛に満ちたものでした。
【廉頗老いぬ、尚お食らうや】趙復帰を阻んだ使者と郭開の買収劇
廉頗が魏や楚で燻っていた頃、祖国・趙は深刻な危機に瀕していました。秦の猛攻は苛烈を極め、趙の国力は日増しに削られていきます。名将不足に苦しんだ悼襄王は、かつて自ら追放した廉頗の偉大さを痛感し、廉頗を趙に呼び戻して再び大将軍に据えることを検討し始めました。
悼襄王は廉頗がまだ戦えるかどうかを確かめるため、使者を魏(あるいは楚)へと派遣します。使者の来訪を知った廉頗は、祖国へ帰還する千載一遇のチャンスと捉え、自身の健在ぶりを猛アピールしました。
当時、すでに高齢だった廉頗は、使者の前で「米を一斗(約2リットル)平らげ、肉を十斤(約2.5キログラム)食らい、鎧を身にまとって馬に飛び乗り、健在ぶりを示した」と史書に記されています。これがいわゆる故事成語「廉頗老いぬ、尚お食らうや(廉頗老いたり、いまだ食らうや)」の由来です。
しかし、この帰還計画を激しく恐れた人物がいました。廉頗を追い落とした張本人である郭開です。廉頗が趙に復帰すれば、自らの悪行が暴かれ処罰されると恐れた郭開は、悼襄王の使者に大金を握らせて買収しました。
趙へ戻った使者は、悼襄王に次のような大嘘を報告します。
「廉頗将軍はご高齢ですが、確かによく食事を召し上がります。しかし、私と会っているわずかな間に、三度も席を立って便所に行かれました(足腰や内臓が弱り切っております)」
これを聞いた悼襄王は「廉頗はもう老いて使い物にならぬ」と判断し、復帰の要請を白紙に戻してしまいました。祖国を救いたいという廉頗の切なる願いは、郭開の卑劣な買収によって永遠に断たれてしまったのです。
【史実とキングダム】作中の名シーンと史実にみる廉頗の死因・最期
原泰久氏の人気漫画『キングダム』における廉頗は、魏の客将として「山陽の戦い」に参戦し、秦国の信や蒙驁(もうごう)と死闘を繰り広げた後、楚へ亡命するダイナミックな姿が描かれました。作中では輪虎(りんこ)や玄峰(げんぽう)ら「廉頗四天王」を従えた豪快な将軍として描かれていますが、その晩年の悲哀は史実の記録と色濃く重なっています。
史実における廉頗は、楚の地で大きな軍功を挙げることも叶わず、ただ趙の行く末を案じながら病に倒れました。紀元前227年頃、楚の寿春にて病没したとされています。享年は80歳前後という、当時としては稀に見る長寿でした。
廉頗が没した直後、趙は秦の名将・王翦(おうせん)の謀略に乗った郭開の讒言により、最後の柱石であった李牧(りぼく)までも処刑してしまいます。支えを失った趙は、廉頗の死の直後である紀元前228年に首都・邯鄲が陥落し、事実上の滅亡を迎えました。自らの誇りと祖国の間で引き裂かれ、異郷で客死した廉頗の最期は、戦国乱世の無情さを今に伝えています。
【廉頗 亡命】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:廉頗が趙から魏へ亡命したのは何年ですか?
A1:史実では紀元前245年です。趙の孝成王が亡くなり、悼襄王が即位した直後に将軍職を罷免され、楽乗と戦って魏の都・大梁へ亡命しました。
Q2:廉頗に攻撃された後任将軍の楽乗はどうなりましたか?
A2:楽乗は廉頗の攻撃を受けて敗走した後、軍を捨てて逃亡しました。その後、歴史の表舞台から姿を消し、趙での地位を失ったとされています。
Q3:廉頗の墓は現在どこにありますか?
A3:廉頗の墓所は、彼が客死した地である中国安徽省淮南市(八公山区)に現存しており、「廉頗墓」として歴史史跡に指定されています。
まとめ:祖国を愛し続けた不世出の猛将・廉頗の生涯
趙の三大天として中華全土に武名を轟かせた廉頗の亡命劇は、個人の能力がいかに突出していようとも、君主の暗愚と側近の謀略によって名将が無力化されてしまう古代戦国時代の悲哀を象徴しています。
理不尽な解任に怒り、同胞の軍を破ってまで国を出た廉頗でしたが、その魂は最期まで祖国・趙にありました。異国の楚で「趙の兵を用いたい」と漏らした嘆息や、高齢を押して肉を喰らい馬に跨った執念は、乱世を生きた武人の凄絶な生き様そのものです。歴史の荒波に翻弄されながらも己の武節を貫いた廉頗のドラマは、今なお多くの歴史ファンの心を揺さぶり続けています。 (出典: 廉頗 亡命(Yahoo!ニュース))